ディズニー100周年作品見てきました。
願いが叶う国・ロサス王国に住むアーシャが、実はロサスの王様が国民から預かった願いの中でも「確実に国のためになるものだけ」を選別して叶えていたことを知り、願いを皆に戻すため願い星と仲間と共に立ち上がる!みたいなお話。
全体的に目新しさはない、んですが、ディズニーの根源にある「願いは叶う」についてのメッセージ性結構感じたかも。
願いとは誰かに託し誰かが叶えてくれるのを待つものではなく、自分で持ち叶えるもの。
わかりやすいテーマなのですが、なんか…キャラの描き方のせいか多様性も同時に押し出しているせいか、言いたいことはわかるのに描写や演出が言いたいことと真逆のことしてるように感じることがしばしばありました。
特に王様周り。
王様が悪役だけど、チラッと過去について触れている情報的に最初から悪ではなかったっぽい。
もともとある国の領主一族だったけど強盗に襲われて王様以外は殺されて、目の前で願いを持つ大切な人達を踏み躙られた経験からそんなことは二度と起きてはいけないと世界中を旅して魔術を学んで自分の王国を築いた。
王様は国民から「願い」を預かり受け(預けるとその人は願いを忘れてしまう)、確実に「王国の繁栄のため」になる願いだけを選別して叶える、という。願いが叶うのは王様の意に沿ったものだけ、というのが願いが叶う国のカラクリ。
願いを誰かに叶えてもらうのを待っていることは自分の大切なものをおざなりに置き捨てるのと同じこと。
願いとは!自分で叶えるべき!お前が消えて喜ぶやつにお前のオールを任せるな!!(突然の中島みゆき)
ただ、王様にそういう過去があって、もう二度と踏み躙られたくないという「願い」が最初にあったなら、最後の対決は王国民vs王様よりも主人公vs王様で個人単位で主張のぶつかり合い欲しかったな…という本音が。願いバトルしようぜ願いバトル!
アーシャはおじいちゃんの願いを叶えて欲しいという願いから、国民に願いを取り戻させようとする方向に行くからどこまでも他人軸(願い星の力を正当に受け継ぐ「魔法使いの弟子」「フェアリーゴッドマザー」の道を示されてるから己の願いではなく他人の願いを叶える存在になっている)だし、王様は私利私欲の願いに走ったけど元は国を運営する上での願いの選別がありそこから転落していったというハッキリとした自分軸の願いがあるのでどうにも現代では王様の方がキャラが立ってしまうんですよね。。。
王様は私はもっと邪悪というか、実は領主一族の生き残りではなく領主一族を襲った盗賊の方でしたとか…?ぐらいに思ってた。でもそれだと王妃の目が節穴になるのでダメだな…みたいな。
正直、改心エンドでも通る設定十分にあったのに「禁術に手を出しちゃったからもうダメだね自業自得でーす」って雑に旧作の悪役達と同じノリで片付けられてしまったのがモヤッとしました。(ただ、王妃に対する態度がモラハラDV男のそれだったので改心ルートでも「こんな改心するわけない」的な批判かなり出ると思う)
それだったらワケアリな過去とか努力家な面とか出さない方が良いような?
願い星のスター、マリオ履修してたからあの不吉なことしか言わない青い星?みたいなキャラを思い出して「可愛い見た目と願い星という設定に反してニヒルなこと言ってくるやつでは?」と身構えてたら小山羊の方がデカいギャップ落としてきて「そっち?!」となった。いやあれはびっくりしたよ。
ヒロインの設定、ヒロインの友人たちの設定、ヒロインと恋仲になるヒーローが出てこないところ、挙げると色々あるけど多様性伝えたかったのかなと思いました。
ヒロインの親友が足が悪い設定だけど誰もそのことには触れないし本編でも特に言及されることはない。そこは良かったなー。代わりに彼女の願いについても触れられない。うん…。
音楽と演出おもしろかったです。
一番好きなのは「ようこそロサス王国へ!」。明るいラテン調でダンスもあって盛り上がる!
次点で王様ソロ曲の「無礼者たちへ」。これ、アーシャ達の叛逆の歌と対になってる?
無礼者たちへ、は明らかに暴君の歌詞で悪堕ち王様演出満載なのに曲調は明るく主人公側のテイスト。
アーシャ達の叛逆の歌は演出が美女と野獣の夜襲の曲を踏襲してるっぽくて、勇ましい正義ではあるけどなんか全体的に怖い。(夜襲の曲は野獣は恐ろしいやつだから殺せ!とガストンが村人達を過剰に煽る曲)
真逆だ〜おもしろいな〜と思うと同時に良いのかなぁ…と少し思った。
私はアーシャは心優しき魔法使いの弟子だし、王様は国を上手く運営してたけどやり方はやっぱり間違えてると思うので、アーシャ達国民のが愚かだ!!王様悪くない!!とかは思わないけど、そう思われる可能性も十分にあると思いました。
ディズニー作品に議論やリアルなモヤモヤを求めてない勢には微妙かも。
総括するとマグニフィコ王が魅力的でキャラたち過ぎてるんだな!!!
以下はゲゲゲの謎とかでも少し感じた愚痴っぽい話
(※公式に対するモヤモヤ口走ってます。ご注意ください)
古くから愛されてるジャンルの周年記念作品って、旧作からのファンも新規のファンも楽しめる作りにしようというのは勿論あるとして、「我こそは初代創立者の正当な後継者なり」を示す儀式的な意味も含んでないか?とウィッシュとゲ謎に感じた。
共に100周年だけど、共通して、「旧作のオマージュをちりばめてる」のと「この作品は初代創立者が最初に作った「原作」に通じている」というのをチラチラ示しているんですよね…
それは全く悪いことじゃないし基本的にとても楽しいんだけど、後継者主張として定番の表現なんだろうなぁって思うと微妙な気持ち。
あとやっぱり初代や創立者の原作につなげるのは正直無理あるだろ…みたいな。
ウィッシュは白雪姫と繋げようとしてる。
ゲ謎のトークショーで「龍賀時貞が亡くなった話を聞いて水木が席を立つと映画と6期になり、座ったままだと墓場になる分岐」という話がされて大いに場が盛りがったようですが、個人的にはおもしろいけどどう考えても墓場と映画では水木の性格も背景設定も違うんだから分岐も何も世界が元々違くない…?となりました。(墓場そのものに繋がるというより墓場と同じルートを辿る、くらいの意味なのかな?でも視聴者側は完全に同軸世界から水木の行動で分岐したと捉えてるよね…)
「これは初代御大の作品を内包した正当な後継作品である」と主張するにはもってこいなやり方だよなぁとか嫌なことを思ってしまった。
以上です。
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