「母親」という物語(※私情強め)

決戦のオネーギンとか読んで思ったこととかあれそれつらつら。(※妊娠出産とかの話あります)(自分語りマシマシな上に楽しくない記事なのでご注意ください)



















決戦のオネーギン、こう、女性差別問題でよくあるやつ結構出てたけど、すごい考えさせられるというかたまに思い出してぐるぐるするんですよね。

いぶちゃんが妊娠を理由に突然降板したやつとか。

あれ、職場で妊娠が分かったときに「この忙しい時期に無責任じゃないの!?」ってなるやーつ!となった上で「妊娠は喜ばしいものだもの」と受け入れた檜山さんの理想的な姿勢が印象的だったけど、

あの作品内では同時に、未来哉君のお母さんが「望まない妊娠」についてのインタビューで「後悔してる、産んだことを無かったことにしたい」と言ってるのがね。

思い返すとこれって「喜ばしくない妊娠がある事実」を示唆してるよなーって思ったんです。


決戦のオネーギンは辻村先生のオネーギンという原作の解釈を交えながら作られていて、その解釈の中に人間の持つ複雑性があると私は思ってて、これもそれのひとつかなとも思いました。


感想はたくさん見たけど、「未来哉君のお母さんはあんなこと言うべきではなかった」ってのは個人的にはどうかな…ってなりました。

まあ確かにひどいんだけども。


自分が母親になって思ったのは、母親になったからって自分が劇的に変わったことは何一つなかった。ということ。

でも子供は、社会は、「お母さん」を求めてくる。

どんな子供でも受け入れ愛し、つらくても子供のためならいくらでも踏ん張れる、子供を正しく導くためなら自分をどんなに捧げ犠牲にすることも厭わない、そんな「母親」を。


そこから外れると母親失格とヒソヒソされますが、じゃあ「あなたは親失格なので子と離れて…」とはならない。

失格者として悔い改めながら子供を育てなさいという圧がある。


昨今ではこういう「母親になった途端子供を最優先に考えるのが当たり前」というのは瓦解してきているなと思ってて。

母親になったからといって一人の女性である、まるで人権が無いように扱われるのはおかしいってなってるんですよね。

そして瓦解したからこそそういう悩ましいとこが出てきたというか、「お母さん」という神聖なる存在ではなく人間として認められたが故に人間同士の主張のぶつかり合いになってきたというか。


現実はそうでも、漫画やアニメや映画を見るたび、まだまだ「お母さん」には「物語」が強く求められているなと感じます。

いや、物語のメインじゃないのに物語の重要な設定背景とその責任を背負わされがちっていうか。

たまに、そんなに求めないでやってよって叫びたくなるんですよね…お母さんだって人間だよって。


未来哉君のお母さんはちゃんと背景とかボカしてインタビュー受けてたけど、未来哉君は気づいてしまった。これは不幸だったとは思うんですが、じゃあお母さんがそんなこと言うべきじゃなかったっていうのはまた違うと思ってます。

私は未来哉君のお母さんは未来哉君にとってそんな印象に残る、未来哉君が母親に会いたいと今でも思ってくれてるとは思ってなかったんだろうなと解釈しました。


だって自分が会いたいと思ってないから。

それだけじゃないかもしれないけど、そういう気持ちがあって今はその気持ちが最前列にあるから。


あのインタビューについて、「お母さんなのにそんなこと言うべきじゃない。産んだ責任を取れ」って言葉で口を塞いでも何もならないだろうなと思う。

寧ろ子への拒絶感とか憎しみが増すんじゃないかな。


「嫌いな人合わない人からは遠ざかりましょう」「毒親からは離れましょう」っていうのは最近よく言われるけど、母親が子供と離れたいという気持ちはあってはならないとされるのはなんでなんかな。

望まない妊娠って辛いだろうな。普通の妊娠出産育児でもつらいんだから。


そんなこんなで物語に出てくる「お母さん」というキャラクターにぐるぐるすることが多くなりました。

なんか、こう、世間一般では子供が闘うアニメに敏感になると聞いたんだけどだいぶ違うな…。

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